2008年のメッセージ
主、我が牧者
エゼキエル書34:11-19
2008年4月13日
エゼキエルはイスラエルの民と一緒にバビロン捕囚に連れて行かれて、その地で捕囚のイスラエルの民に対して神の御言葉を告げた預言者です。神さまはエゼキエルを通してイスラエルの民との関係を、牧者と羊として宣言されます。牧者が自分の羊の群れを探し出して養うように、神さま自らイスラエルの民を帰還させて良い牧草地で養うことを約束されています。
神さまがご自分の民を養うと約束した良い牧草地はどのような地でしょうか。14節に「イスラエルの高い山々」とあります。食べる物が豊富だから良い牧草地というよりは、神さまご自身が民の牧者となって下さるから良い牧草地なのです。それはまさしく、エジプト脱出後にイスラエルの民が導かれたところが荒野だったことと通じます。荒れ果てているところで神さまは「傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」と言われます。厳しく寂しく、何も見えない環境の中で、神さまはわたしたちの牧者となられて命がけで私たちを守ってくださるのであります。その時はじめて私たちには真の休息が与えられます。エゼキエルの預言通りに(23節)イエスさまはこの世に善い羊飼いとして来られました。そしてわたしたちのために十字架上で殺されました。また復活を通してわたしたちに新しい命を与えて下さいました。私たちはイエスさまを見上げることで牧者である神さまを知るようになります。
神さまが自ら私たちの教会の牧者となられて私たちを探し出し、私たちを養ってくださることを覚えて日々歩めればと願います。
新しい命を生きる
コリントの信徒への手紙二4:7-16
2008年4月6日
作家北条民雄は『いのちの初夜』の最後のくだりで「全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです」と言っています。これはハンセン病患者の著者が全く新しく生きようとした渾身の叫びです。
今日の箇所で使徒パウロは、人間の弱さを土の器に喩えながらも、その弱くて割れやすい土の器の中にイエス・キリストという宝を納めていると語っています。わたしたちは様々な試練に遭遇してすぐに絶望したり、諦めたりする弱い存在ですが、私たちの内にイエス・キリストが生きておられることが大きな励ましとなります。私たちは自分の弱さに目を向けるのではなく、私たちの内にいるイエス・キリストにこそ目を向けたいと思います。使徒パウロは生きる望みを失うほどの厳しい伝道旅行を「四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と証しています。パウロにとってそのような苦難こそイエスさまの死を体にまとっていることであり、イエス・キリストの命が自分の中に現れる証であると告白しています。そのようなパウロの信仰には主イエスを復活させた神さまが、自分たちを復活させて下さるという揺らぎない信仰があったと思います。
今月から始まる2008年度の歩みが、わたしたちの弱さの故に落胆することなく、宝であるイエス・キリストの故に与えられている新しい命を生きる年となればと思います。
主の食卓へ
ルカによる福音書24:13-35
2008年3月30日
今日の箇所で二人の弟子は、おそらく師に懸けた期待の敗北感と師を裏切った自分たちの罪責感を持ってエルサレムを立ち去ったと思われます。孤立無援のように思われる彼らの道にイエスさまが付き添っています。
イエスさまと共に歩きながら、イエスさまを知っているつもりで気付かなかった二人のアイロニーは私たちの姿かも知れません。一日中共に歩き、話し合い、聖書を解き明かされても「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」です。
二人の弟子がイエスさまに気付いたのは、イエスさまと食卓に着いた時でした。イエスさまがパンを裂いてお渡しになった時、「二人の目が開け、イエスだと分かった」のです。二人はイエスさまとの食卓で遮られていた目が開け、復活のイエスさまに気付きました。二人は生前のイエスさまと共に食卓に着いた時のことを思い起こしたのでしょう。罪深い女性の香油の献げを、幼い少年の五つのパンと二匹の魚の献げを、やがては「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」と言われた最後の晩餐でのイエスさまの献げを思い起こしたでしょう。まさしく「わたしが命のパンである」(ヨハネ6:35)と言われたイエスさまが彼らのために命を献げて下さったことに気付いたのです。
礼拝をはじめ、個人のディボーション、祈り会などで復活のイエスさまに気付かされていく2008年度を目指して歩みましょう。
生きておられる主
ルカによる福音書24:1-11
2008年3月23日
イエスさまの時代の女性たちと言えば、人数に数えられていなかった上に、証人として効力もありませんでした。一言で云えば、人間以下に扱われていました。
今日の箇所ではそのような女性たちによってイエスさまの復活が伝えられています。女性たちの中にマグダラのマリアという女性が出てきます。彼女はイエスさまから「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハネ8:11)という言葉で救われ、ナルド香油を割ってイエスさまの足をぬぐった人物で知られています。彼女は不幸な人生の真ん中でイエスさまに出会い、人間として受け入れられたことでしょう。しかし、その喜びもむなしく、イエスさまは反逆者として十字架の上で惨たらしく殺されました。それまでのイエスさまの教えや、癒し、福音のすべてが失敗であるかに思われました。彼女がイエスさまによって受け入れられたことも無意味になりかねない状況でした。彼女は悲しみと絶望の中でイエスさまの墓へ行ったのかも知れません。
しかし、イエスさまは罪人の手に渡され、十字架につけられた後、言われていた通りに三日目に復活させられました。これは彼女たちを受け入れられたイエスさまが真理であったことの確証でした。また、彼女たちは貧しく無力でしたが、神の国を所有していたことの立証でした。彼女たちはイエスさまの復活の最初の証人として用いられたのです。
神さまは「力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれた」(一コリント1:27)お方です。わたしたちの信仰の歩みが今も生きておられるお方に支えられて歩まれればと思います。
平和と栄光の道
ルカによる福音書19:28-40
2008年3月16日
イエスさまは子ろばに乗られて謙遜な姿でエルサレムに登られますが、イエスさまを迎える人々にはそれぞれの考えがありました。
イエスさまが二人の弟子に子ろばを引いて来させたのは弟子たちをイエスさまの働きに参与させる配慮のように見取れます。この子ろばに乗られてイエスさまは十字架での死と復活の第一歩を歩まれます。この姿は旧約聖書の実現であると同時に(ゼカリヤ9:9)、神さまに従うイエスさまの従順な姿を表しています。人間を救おうとする時、イエスさまは子ろばに乗られました。これは生まれた時飼い葉桶に寝かせられた姿と重なり、イエスさまの生涯に貫かれて見られる低くされた神の子として姿であります。そのようなイエスさまを迎えた二つの群れがいました。一つは弟子たちの群れであります。彼らはイエスさまの働きから革命を起こしてローマ帝国を倒してくれる政治的メシアを見ていました。もう一つはファリサイ派の人々です。彼らは弟子たちを叱ってくれるようにイエスさまに願い出ています。イエスさまはご自身を正しく理解していない弟子たちやファリサイ派の人たちを憐れまれました。イエスさまは力を持って平和を得ようとする人々のやり方を否定され、無力で弱い姿で平和と栄光の道を行こうとされていたのです。
今週は受難週です。イエスさまはご自分の命をわたしたちのために献げて下さり、その十字架と復活の御業によって救いを成し遂げられました。イエスさまの受難の道は平和と栄光の道であることを黙想しましょう。
捨てる石から礎の石へ
ルカによる福音書20:9-19
2008年3月9日
エルサレムに入られたイエスさまは人々に譬え話をされます。「ある人がぶどう園を作り、農夫たちに貸して旅に出かけた。収穫の時に主人は収穫を納めさせるために僕の一人を送るが、農夫たちは僕を袋だたきにして追い返した。それから三度も僕が遣わされるが、その都度農夫たちは僕たちを侮辱して放り出した。そこで主人は愛する息子なら敬ってくれると思って自分の息子を送るが、農夫たちはこの息子を殺せば、相続財産が自分たちのものになると思い、息子を殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない」と。
ぶどう園の主人は神を、ぶどう園はイスラエルを、農夫たちは民の指導者を表します。遣わされた僕は預言者を、息子はイエスさまご自身を表しています。イエスさまに権威を問うているファリサイ派の人々は、主人の主権を否定した農夫たちであります。この譬え話はイスラエルの歴史そのものであります。まもなく起きるイエスさまの苦難と十字架での死は、農夫たちに惨たらしく殺されたように「大工の捨てる石」でしたが、神さまはイエスさまを「礎の石」として復活させられます。すなわち、人間のイエスさまに対する否定を大きな肯定へと祝されたのです。
受難週を迎え、イースターを前に神さまに委ねられている最後の勝利を見上げつつ、「捨てる石から礎の石」となった主イエス・キリストを中心としてしっかり組み合わされて成長する教会を夢見ます。
栄光に輝くイエス
ルカによる福音書9:28-36
2008年3月2日
イエスさまが誰なのかという問いは福音書記者の重要な関心事であり、現代のわたしたちにも問われる問題でしょう。その問いをイエスさまは十字架の死と復活から答えられました。
それから八日の後、イエスさまは弟子たちを連れて山に登られます。弟子たちは栄光に輝くイエスさまとモーセとエリヤを見ました。また「これはわたしの子…これに聞け」という、バプテスマを受けられた時と同様の神さまの声を聞きました。これはイエスさまが十字架の死を克服して復活される出来事の先取りであります。十字架の死ですべてが終わるのではなく、新しい始まりだという神さまの恵みだったのです。弟子たちはイエスさまの復活の栄光を体験しますが、その意味が分からなかったと思います。山の下では悪霊を追い出すことの出来ない厳しい現実に戸惑いを覚えていたからです。イエスさまは弟子たちがご自分の死のために深い絶望を味わうことを知っておられ、弟子たちに降りかかる苦難から復活の希望を持つように望んでおられたのではないでしょうか。復活のイエスさまに出会った弟子たちは絶望を克服して、命がけの伝道者となります。その過程の中で、弟子たちはこの山で見た栄光に輝くイエスさまの姿を思い起こし自分たちが置かれていた厳しい現実から希望を見出すことが出来たと思います。
イエスさまが弟子たちに栄光に輝くイエスさまの姿を見せて下さったように、今も御言葉や周りの弱者を通してイエスさまの栄光を見せてくださっています。祈りながら日々歩みましょう。
心に留められる主
イザヤ書63:7-14
2008年2月24日
「心に留める」と預言者は神さまの恵みを思い起こして、同胞のイスラエルの民に語り告げています。預言者が思い起こして語り告げている神さまの恵みを考えることは、わたしたちを変わらない神さまの恵みに心を向けさせます。
預言者が思い起こしている神さまは、イスラエルの人々を「わたしの民、偽りのない子ら」と言われ、「彼らの苦難を常にご自分の苦難とし・・・彼らを贖い・・・彼らを担って下さった」お方であります。これの背後にある出来事はかつてエジプトで奴隷であったイスラエルの苦しみを神ご自分が救い出したことでしょう。神さまはご自分の民への苦しみを目の当たりにして「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」(出3:7)とモーセに言われたことがあります。まさしく神さまの思いは産みの苦しみそのものだったように感じられます。
預言者の呼びかけにイスラエルの民は出エジプトでの神さまが「どこにおられるのか」と現実の苦しみに一層目を向けます。神さまがおられるならば、このように滅びに先走る国を放っておくはずがないと嘆いているのです。
神さまの言葉を預かった預言者は胸がちぎれる思いで泣き叫びます。「思いのままに良くない道を歩く民に、絶えることなく手を差し伸べてきた。」「わたしは新しい天と新しい地を創造する。」神さまはわたしたちを心に留めておられます。わたしたちを忘れません。神さまの恵みを思い起こし、語り告げていきたいです。
神の国が来ている
ルカによる福音書11:14-26
2008年2月17日
イエスさまの公の働きの核心は、神の国の福音を宣べ伝えることであります。それはルカがイザヤ書から引用したような「捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる」(4:18-9)働きであります。
今日の箇所でもイエスさまは神の国がすでに人々の間に来ていることを教えるために、口の利けない人を癒されます。しかし、人々はイエスさまがベルゼブルの力で悪霊を追い出したと中傷しています。イエスさまの働きはなかなか理解されませんでした。バプテスマのヨハネすらもイエスさまの働きが理解できず「来るべき方は、あなたでしょうか」と聞くほどでした。イエスさまの働きは当時の人々が夢見ていた政治的かつ革命的メシア像とは程遠い姿だったからです。
イエスさまは人々の無理解に論理的に答えて、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20)と言われました。イエスさまの働きが施されるところに神の国がすでに来ていて、イエスさまの働きを見た人、聞いた人はみな神さまに支配されて、神さまと、隣人と、自分と正しい関係を結ぶようになるのです。
わたしたちが御言葉を読み、また黙想していく時にわたしたちの中に神さまの国が来ています。わたしたちも神さまに支配されて、自分の欲に従って生きるのではなく、「わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によって」(ガラ2:20)生きたいと願います。
主の名を呼び求める
ローマの信徒への手紙10:8-13
2008年2月10日
「主の名を呼び求める」というのは、信じるために最善を尽くす「行為」ではなく、神さまからの恵みに対する「応答」であります。
パウロはローマ書9〜11章で同胞のユダヤ人も救われるということを語っています。なぜなら、すべての人々にイエス・キリストを通して神さまの救いが与えられているからです。しかし、ユダヤ人は律法を守る行為によって救われると思っており(自分の義)、キリストを信じることによる救いが理解できませんでした。律法とは救いそのものではなく、神さまの恵み導いてくれる養育係り(ガラ3:24)であり、キリストに案内してくれるものであります。ユダヤ人の自分の義を主張する限り、イエス・キリストが成し遂げられた受肉と復活は無駄になります。パウロは教会の人々にイエス・キリストを信じて神さまと正しい関係に結ばれる「信仰による義」を力説しています。信仰による義とは、不信心なわたしたちをそのままで義とする神さまを心から受け入れて、口で公に言い表すことであります。いわば、お父さんの恵みに気付かされた放蕩息子が「破産宣告」を認めてお父さんのもとに立ち返ることに例えられます。これこそ「心で信じる」、「口で言い表す」という「応答」であります。
「主の名を呼び求める」わたしたちは、神さまから与えられた恵みに対して「応答」し続けていく群れです。そのような応答や告白がわずかなことでも具体的にわたしたちの教会を通して隣人に広がっていくことを願います。
我を憐れみ給え
ルカによる福音書18:9-14
2008年2月3日
今週の水曜日からレントが始まります。レントとはイースターを控えた40日前からイエスさまの受難と復活を覚え、慎んで自分を顧みながらイースターを準備する期間であります。今日の箇所からその姿勢について考えてみましょう。
イエスさまはファリサイ派の人と徴税人との祈りの譬えから、へりくだることを教えられています。これは前の段落のやもめと裁判官の譬えから気を落とさずに絶えず祈るという教えとワンセットと思われます。わたしたちは日々の生活の中で、時には神さまの沈黙に落ち込んだり、時には高ぶって人を見下したりします。そのようなわたしたちにイエスさまは気を落とさずに祈り、またへりくだる人々の間に神の国があることを教えられているのです。徴税人は「主よ、罪人のわたしを憐れんで下さい」と祈っています。へりくだり、神さまの憐れみを求めているこの姿こそ真の信仰ではないでしょうか。神さまがわたしたちの祈りを聞いて下さること、また正しく適えて下さることへの信頼があるからこそ「わたしを憐れんで下さい」と祈ることが出来るのではないでしょうか。この章の最後でイエスさまはご自分の受難と復活を理解していない弟子たちの前で「わたしを憐れんで下さい」と叫び求める一人の盲人を癒し、彼の信仰を褒められました。
わたしたちの教会はイースターを迎えて特別伝道集会を計画しております。イエスさまの受難と復活とにわたしたちの目が開かれることを祈りながらイースターを迎えましょう。「我を憐れみ給え!」
キリストに結ばれた者
コリントの信徒への手紙一1:1-9
2008年1月27日
「キリストに結ばれた者」とはどのような者でしょうか。コリント教会宛のパウロの手紙の冒頭の挨拶から、イエス・キリストによって召された者、豊かにされた者、作られていく者だと学ばされます。
第一に、キリストに結ばれた者とはイエス・キリストによって召された者であります。本文はキリストの使徒として召されたパウロが、キリストによって召されて聖なる者とされたコリント教会宛に書いているものです。パウロという個人も教会という群れも主イエス・キリストに招かれてはじめて存在意義があるのです。第二に、キリストに結ばれた者とは、イエス・キリストによって豊かにされた者であります。パウロは私たちを招かれるイエス・キリストの故に、私たちがすべてのことにおいて豊かにされたと言っています。イエス・キリストはご自分の命を代価として払って私たちを買い取られたからです。命がけで愛してくださる方がいるわたしたちは何も持っていなくても豊かではないでしょうか。第三に、キリストに結ばれた者とはイエス・キリストによって形作られていく者であります。個人も教会も現在は自分と他とを比べながら優越感や劣等感をもつ限界ある存在にすぎませんが、救い主イエス・キリストが主の日まで私たちをしっかりと支えて、非の打ちどころのない者として下さるのであります。
わたしたちは「キリストに結ばれた者」です。すなわち、神の子、主イエスキリストとの交わりに招きいれられた者として日々歩んでいきたいと思います。
恐れることはない
ルカによる福音書5:1-11
2008年1月20日
「恐れることはない」という言葉は漁師のペトロへのイエスさまの招きの言葉です。ペトロは何を恐れていたのでしょうか。また、今日を生きるわたしたちにとってもペトロの持った恐れを抱えていることに気付かされた時、このイエスさまの「恐れることはない」という招きはわたしたちに励ましと力となると思います。
イエスさまは一晩中無駄骨したペトロに近づいて来られて、船に乗られて群衆に教え始められます。ペトロはそのそばで言葉を聞かざるを得ない状況に置かれます。教え終えられたイエスさまはペトロに「沖に漕ぎ出し網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。「御言葉ですから」と網を降ろしたペトロの行為が、従順からのものか、反抗を感じつつであるのかは断定できませんが、自分の経験や自尊心を手放さねばならない恐れを感じたに違いありません。さらに、船が沈みそうになるほど魚が取れた時にはペトロはイエスさまの前に立っている自分が罪人であることを自覚させられます。恐れのあまりに「わたしを離れてください」と訴えます。
御言葉通りに生きようとするわたしたちには、自分の経験や自尊心を手放す時、恐れがあることは事実です。またイエスさまを知れば知るほど自分の存在が罪人であることに気付かされます。しかし、そのようなわたしたちの恐れをご存知であるイエスさまは「恐れることはない」と招かれています。イエスさまご自身がわたしたちと共に与えられた人生を歩んでくださることこそが恐れているわたしたちへの励ましとなると確信いたします。
神に心に適う者
ルカによる福音書3:15-22
2008年1月13日
「わたしより優れた方が来ます。その方は、聖霊と火でバプテスマをお授けになり、麦と殻を掻き分けます。」自分をメシアかも知れないと考えている人々にヨハネはきっぱりと言い渡します。ヨハネはイエスさまの道を準備することに生涯を生きました。
ヨハネの言葉どおりイエスさまが現れてバプテスマを受けました。ここではイエスさまがヨハネにバプテスマを受けたかは確かではありません。とは言え、イエスさまのバプテスマが無意味にはなりません。福音書ではイエスさまのバプテスマは聖霊の降りと神さまの宣言に硬く結びついています。バプテスマを受けて聖霊が降って来たのは、神さまの霊の油注ぎを意味しています。旧約時代の王を神さまが立てられたようにこの世にメシアをお遣わしになったことの確証なのです。さらに、開かれた天からは神さまの声が聞こえてきます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。神さまがメシアとして確証されたその方は神さまの独り子です。そして神さまの喜びです。この出来事はイザヤ預言者の「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」(イザヤ42:2)という言葉の実現でもありましょう。
神さまはご自分の独り子の死と復活を通してわたしたちに救いを与えられました。その大きい愛を受け入れる信仰によって、わたしたちは神さまの心に適う者となるのであります。
主に寄り頼む者
詩編2:1-12
2008年1月6日
新年明けましておめでとうございます。教会とみなさまの上に神さまの恵みが豊かにありますように。神さまはわたしたちの避けどころであります。神さまはわたしたちの救い主であるからです。詩編2編で詩人は主を避けどころとする人は幸いであると歌っています。
人々は陰謀や反逆を企んで、神さまと神さまが立てられた王に対抗します。詩人はこのような愚かな人間を、1編で「神の道に逆らう者」と看做して「神の道に従う者」が御言葉を口ずさむのに対して、むなしさを口ずさむ者だと言っています。詩人はこのような人間の愚かさに心を痛めながら、「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」という神さまの定めを述べています。イスラエルの王を立てられ、治めさせるのは神さまであることの宣言であります。そこには人間の救いのために産みの苦しみを厭わない神さまの愛が示されています。神さまに背いている人間、その人間を救おうとする神さまの計画はイエス・キリストを通して成就されるのです。詩人は人々に「畏れ敬って、主に仕え、おののきつつ、喜び踊れ」と呼びかけています。人間の愚かさ、それに対する神さまの怒りと同時に、神さまの救いに目を向けている詩人は、それこそ、主を避けどころとしているのではないでしょうか。
詩編1,2編は詩編150編の序文に当たります。主の道に従う者、主を避けどころとする者として与えられた人生に真剣に応答しながら歩んでいきたいと願います。
